独立までの零れ話

今回のインタビュアーはウチアトリエ内が担当。メンバーの紹介を兼ねて、学生の時のこと、この道に進むきっかけ、師との出会い、入所までのエピソードなどを聞いてみました。

 

石原朋子 / 一級建築士事務所デザインガレージ

 

文化学院建築科卒業(1988年)、木曽三岳奥村設計所勤務、事務所設立(2004年)

 

石原さんは小学4年生の子供を育てながら設計活動をしています。子供のための地域活動などにも関心を寄せ、空手や合唱など様々な事に取り組んでいます。何事にも好奇心旺盛で活動的な方。最近嬉しかったことは3個のお手玉を同時に投げられるようになった事とのこと。

 

内:学生の時の事を教えてください。

石:私の場合はすごく特殊なキャリアで高校が都立代々木高校。当時全国で唯一午前・午後・夜間の三部制を取り入れてた、元々は看護師や警察官など三交代勤務で働く人のためにできた都立高校(※その後統廃合されて現在は世田谷泉高校)で、好きなことをやりたかったし自由な時間が欲しくてそこに行ったのね。色んな人がいて年齢も色々で、そこでいろんな人生のバリエーションを見た。

 

内:高校卒業後は?

石:卒業後も「好きなことやりたい」と母に言ったら「文化学院っていう学校がある」と。聞いてみたらそこも面白そうな学校で、建築・演劇・美術・文学・仏英文などの科があってどれにしようかなと。子供の時から工作が好きだったから建築かなと思って。授業はすごく面白かった。伝統的に専任の先生が少なくてあとは全員非常勤、その布陣がゴージャスで他の科のいろんな授業を聴講できた。野村万作さんとか長岡輝子さんとか、その授業が本当に楽しくて。

 

内:専門学校を卒業した後は?

石:卒業したら旅に出ようと思ってて。「兼高かおる世界の旅」というテレビ番組があったの知ってる? 女性が世界中を旅した番組があったんですよ。こういう人になりたいって思った。だから就職する気もなくて旅に出ようと思っていたけど、奥村事務所(木曾三岳奥村設計所)に拾われて。

 

内:奥村さんとの出会いのきっかけは?

石:’86年に両親が東京を引き払って外房に移住した後、たまたま母の東京での親友が近くに来て家を建てることになって。「ちょっとおもしろい人に設計を頼もうと思ってるからあなたも会ってみない?」って。それが奥村まことさん。

 

皆:えーっ、うそー!!!

 

石:会って見たら、まことさんが、初対面でいきなり「図面描きから現場まで全部一人でやってみたら」と。私が学生4年の秋。まずはバイクで旅に出ようと思っていたけど、設計料全部くれるっていうし、じゃあそれをもらってから旅に出ようと思った。

 

内:入所の経緯は?

石:奥村まことさんに10枚図面を渡されてこれと同じように描けって。それで設計にとりかかったわけだけど、当然4年の秋から始めて卒業設計も卒論もあって、卒業までに現場が終わるわけない。卒業したら仕送りが止まるし困ったな…となって、3月末ギリギリなになって「すみませんけど就職させてもらえませんか?」と切り出したらあっさり「いいよ」と。ちょうど奥村(昭雄)さんが芸大を退官して1年目、OMソーラー協会が出来て、広島の病院も残務のみで事務所に誰もいないときだった。それまでは芸大奥村研の人たちも事務所に出入りしてわーっとやっていたけど、解散してたまたま事務所に誰も居ない時期、一人ぐらいいいだろうと思ったんでしょうね。肝心の設計は何も知らないからもー大変で、とにかく必死でやって、結局終わる頃には旅に出る話はどこかへ行ってしまって、それから16年お世話になりました。

平間千恵子 / スモールスペース1級建築士事務所

 

中央工学校建築設計科卒業 (1986年)、工務店設計部勤務、事務所設立(2006年)

 

お茶目な天然ボケがたまにでる平間さん。最近、ご自宅を「働く家」として改装。愛らしく居心地も良い、とっても素晴らしい家。平間さんの作る家は人柄と同じくいつも温かみがあります。市民オーケストラに所属していてバイオリンもやられています。

 

内:学生時代のことを教えてください。

平:高校を卒業して、中央工学校に。その時点ではまだ建築じゃなくても良くて、資格もとれるし、今思えば、母が喜ぶのではないかと思って入学したのかもしれない。学生時代はどうしようもなくて、設計の課題提出は毎回ギリギリだった。

 

内:その後、地元の工務店に勤務することになると思いますが、その経緯を教えてください。

平:卒業後、実家の家を建てるってことになり、施工をその工務店に頼むことに。それもふらっとモデルハウスを見に行って、たまたま社長がいたの。うちの担当が社長になり、打合せの度に社長がきてくれて。色々な話しをしていたら、うちで勤めたらって。それで入社したの。これが建築をやる大きなきっかけだった。

 

内:大きなきっかけってどんなことだったのですか?

平:本当にものすごくかっこいい上司がいたのね。「俺が責任をとってやるから、色んな事をどんどん挑戦してみろ」って感じだった。田舎の会社じゃないんだよね。ちゃんと建築をやっていて、それで、「建築」っていうのが芽生えてきた。負けず嫌いもあって、最初は仕事ができないと思われるのが嫌で、部長達に全然相手にされないのがくやしかったので、仕事はできるようになりたいと思って。その工務店がOMソーラー協会に入ったころから、建築家の方たちと接点ができた。建築家とか設計事務所の存在もそれまでよく知らなくて(笑)。永田昌民さんとの出会いも決定的だったよね。

 

内:永田さんとはどのようなご縁だったのですか?

平:すごく偶然で、永田さんに設計を依頼した施主が、その工務店の会長の友達で、初めて永田さんの家をうちの工務店で建てることになったの。それで、施工図とか枠詳細図を「私、やりたいです!!」って手伝わせてもらって。頼まれもしないけど、永田さんの設計室に押しかけて。施工図を書くという名目で、N設計室に出かけて行きいろいろ教えてもらって、持ち帰ってきて会社でも書いたりして、、、。

それから何軒かそのようなことを続けていました。永田さんにも、その当時それを許してくれた工務店にもとっても感謝しています。

石:永田さんに本当にかわいがってもらっていたよね。

廣谷純子 / みっつデザイン研究所

 

武蔵工業大学(現 東京都市大学)工学部建築学科卒業(1995年)、野沢正光建築工房勤務、

武蔵工業大学環境情報学研究科卒業(2005年)、オーガニックテーブル株式会社勤務、

みっつデザイン研究所設立(2011年)。

 

パッシブ建築を「つくる」「つかう」「つたえる」活動をしている廣谷さん。環境について子供たちに伝え、建物の使い方を建て主に伝えるすばらしい活動をしています。建物完成が終わりでは無く、その先が重要で、そうでないと本当の意味でのパッシブ建築にはなりません。小さな頃からお母さまの方針でオーガニックな生活をしてきて、それがこの取組みや興味につながっているのだろうと話してくれました。

 

廣:私は、母親が家に居る中で育ったから、女性が男性と同じように総合職として会社の中で働くことがイメージできなかった。何か専門家にならないと一生は働けないのだろうなぁと漠然と感じていました。

 

内:大学時代、就職活動をするときにもその考えがあったのですか?

廣:大学に入学するときに、「デザイナーとか設計士」という専門職をイメージしたかな。それで卒業後は、野沢事務所(野沢正光建築工房)に就職したの。

 

内:そのきっかけは?

廣:大学時代の恩師である宿谷昌則先生に出会ったことがすべてのきっかけ。大学時代、設計の授業は履修してたけど、あんまり形をどうするかということに興味が沸かず、設計に熱中できないな、、、と思っていた時に、宿谷先生の授業で、カーンのキンベルの美術館のボールド天井の写真を示しながら、「これはね、こうやって光が入るようになっていて、そのためにこの形があるのだよ」って。そこではじめて、環境デザインというものに触れて、形に合理的な理由があって、地球にも住まい手にもメリットがあるこんなすごい考え方があるのか!!って。それでようやく、建築って面白い!この考え方だったら設計を一生の仕事にしてみたいかも!って。

 

廣:それで、建築環境学を専門とする宿谷先生の研究室に入って、本当は、実験をしたり、コンピューターシュミレーションをして論文を書かないといけないような研究室だったんだけど、「論文もやりますが、卒業設計もやっていいですか?」って聞いたら、「いいよ」って言ってくれて。論文と卒業設計を平行してやりつづける中で、宿谷研究室でやっていることを、どうやったらこの現実の世界で、できるのかって思っていた時に、野沢正光さんが書いた「環境と共生する建築」っていう本を見つけて。その本を読んだときに、もうこの人しかいない!って。その勢いのまま野沢さんに連絡をして4年の春くらいに会いに行って。いい返事はすぐにもらえなかったんだけど、夏休み、秋と、とりあえず顔を忘れられないように会いにいきながら、働きたいアピールを続けて、12月ぐらいに、「私そろそろ就職を決めないとだから、お返事ください」って野沢さんに話して。

 

平:なんか付き合ってる人に結婚せまるみたいじゃない(笑)

皆:笑

 

廣:それで、「いいよ来ても」って。

仕事の内容や職場は変わったりするけど、大学時代に出会ったこと、考えたことが土台であり一番大事なことであることは今でも変わらないかな。

橋垣史子 / いろは設計室

 

日本大学理工学部海洋建築工学科卒業(1995年)、設計事務所勤務、加藤武志建築設計室勤務、設計室開設(2006年)

 

橋垣さんは自然素材を大切にした家づくりをしています。橋垣さんの作る家も肩肘を張らない、シンプルで居心地のいい家です。最近は革のバックをチクチク縫って作ることが趣味で、これもまたとっても素敵。実直に設計に向き合っている方だと思います。

 

内:大学卒業してからは?

橋:ビルやマンションなどを作っている普通の設計事務所に。

 

内:そこに入ったきっかけは?

橋:大学生の頃は組織事務所に行きたいと思っていたの。大学では住宅の設計についてはほんの少しふれるだけであまりやらずに、都市開発とかビルのような大きな建物のことばかりだったので、建築っていうのは組織事務所とかゼネコンで、大きいものを作るイメージ。でも結局行きたかった組織事務所には入れずに、卒業後はさっき話した普通の設計事務所に就職したの。でも使う相手がわからずに標準的なものを設計するビルやマンションの設計が面白いと思えなくて・・・。実際に住む人に向かい合って話をしながら細かいところまでつくっていける住宅の設計をやってみたいと感じ、建築家のアトリエ事務所に行きたいと思うようになって。雑誌などを見ている中で、加藤武志さんのつくるものや考え方がとても優しくて好きだったから、働きたいですって連絡して。でも「要りません」って言われて。

 

内:どうやって入れることになったのですか?

橋:ちょうど加藤さんの自宅の庭にアトリエをつくろうとしていた時期で、そこにアトリエができたら家スタッフを雇うことも考えるかもしれないけど、今は結構ですみたいな感じで言われて。ということはいつか入れてくれるかもしれないって思い、電話を切った後、改めて想いを書いて、履歴書を送って。そうしたら、ちょっと遊びに来ますかってことになって、遊びに行って。そうしたら週に3、4日バイトきますかってなって、ちょこちょこ行くようになって。そうしたらじゃあ入りますかってことに!押しかけです。

内 美弥子 / ウチアトリエ

 

東京理科大学工学部卒業(2001年)、村田靖夫建築研究室勤務、設計事務所開設(2006年)

 

私も石原さんと同じ歳の娘がいます。幼い時にお人形のお家を作ることが大好きだったことがきっかけで、この仕事につきました。住宅を選んだ理由は、住宅設計は建築の基本だから。それと、廣谷さんと同じように女性が働くということを学生の時に考えて、私は暮らしと働くことが直結する仕事がいいなと思いました。そして、大学の非常勤講師としてお世話になった村田靖夫さんのところに大学卒業後に入所させてもらいました。

 

 

5人ともに大きく影響を受け、育てて頂いた方々います。ご縁やチャンスがあって今があることを再認識しました。各々の「ものさし」は確実に学生時代や修行時代にできたものです。5人のこれまでを少し垣間見える記事になればと今回企画しました。ここに書ききれなかった話しもたくさんできて、私自身、みなさんの事を改めて深く知ることができました。

 

内 美弥子(ウチアトリエ)